
【歴史を秘めた運天港】
運天港は沖縄本島北部の今帰仁村にある港である。運天港は古くから知られ、『海東諸国紀』(1471年)の「琉球国之図」に「雲見泊 要津」と記されている。「おもろさうし」で「うむてんつけて こみなと つけて」と謡われている。さらに古くは12世紀頃、源為朝公が嵐にあい「運は天にあり」と漂着したのが「運天」の名称になったという。その話は運天で終わることなく、為朝公は南に下り、南山の大里按司の妹を娶り、その子が瞬天王となり、浦添城の王(英祖王)になったという。為朝は妻子を連れて大和に帰ろうとするが、出て行こうとするたびに波風が立ち、とうとう一人で帰っていった。妻子が待ち焦がれた場所がマチナト(待港、今の牧港)だという。運天に為朝公が一時住んだというテラガマがあり、また「源為朝公上陸之跡碑」(大正11年)が建立されている。
北山・中山・南山の三山が鼎立していた時代の北山の居城は今帰仁グスクである。最大規模を誇る今帰仁グスクの北山王は明国と貢易をしている。その時の港は運天港だと見れる。今帰仁グスクの麓は親泊があるが、進貢船規模の大型船の出入りできるクチがない。大型船は運天港に着き、そこから小舟で親泊まで荷物を運搬したのであろう
運天港は1609年の薩摩藩(島津軍)の琉球侵攻の時、こほり(古宇利島)と運天港は船元になった場所である。70,80隻の船が古宇利島から運天港あたりに帆を下ろし休息をした。一部は羽地内海の奥まで散策したようである。一部は今帰仁グスクを攻め入り焼き討ちにしている。薩摩軍は、南下し首里城に攻め入り琉球国は征伐された。時の王は尚寧である。薩摩軍に捕虜として薩摩へ連れて行かれる途中、再び運天港を経由して薩摩へ向かった。
その後、運天港は薩摩へ運ぶ米(仕上世米)を積み出す港の一つとなる。仕上世(しのぼせ)米を積み出す四津口(那覇・湖辺底・勘定納・運天)の一つが運天港である。
運天には百按司墓があり、第一監守時代あるいはそれより古い時代の墓と見られる。今帰仁グスクで監守を勤めた今帰仁按司一族の墓が1722年頃、今帰仁グスクの麓のウツリタマイにあった按司墓を運天港に移葬している。1742年に大島から琉球の運天港に回送された唐船があった。修理する間、運天で40人余の唐人を収容した。その時、三司官を勤めていた蔡温も訪れ指揮を執っている。また、運天には大和人墓が二基あり、一基は屋久島の宮の浦の船乗りだったと見られる。もう一基は安政五年の年号があり、それも大和人の墓である。運天港が薩摩と琉球をつなぐ港として機能していたことがわかる。
1816年にはバジル・ホールが運天港を訪れている。当時の運天の
運天港には今帰仁間切の番所が置かれ、行政の中心となった場所である。番所(役場)は大正5年まで運天にあったのを仲宗根に移動した。今帰仁の行政の中心は運天から仲宗根へと移った。また、かつての運天港は運天新港(浮田港)や古宇利大橋の開通でフェリーの発着場としての機能は失ってしまった。しかし、今帰仁廻り(神拝)で訪れる人々の姿が見られた。そこには琉球(沖縄)の秘められた歴史があり、肌で感じ取ることができる港である。



【運天のクンジャー】(2004年6月24日)
運天のクンジャーの集落から喜屋原、そして寺原あたりを歩いてみた。『運天の字誌』」の漁業調査のためである。陸上からクンジャーの前にあるリーフの状況を把握するためである。リーフの地名を拾っておきたかった。エービシやクジラマタがある。クジラマタ(鯨又)はクジラがリーフの又になったところに迷い込んだことによるという。
海に関わる地名ではないが、アガリクンジャーと呼ばれる湧泉がある。位置的にはクンジャー集落の東側(アガリ)にあるカー(湧泉)なのでそう呼ぶ。クンジャーノジャーはカーやジャーは湧泉のこと。クンであるが、クイ+ジャーがクンジャーに転化したのであろう。クイは古宇利のクイやフイ、越地のフイジと同じクイ。すると「越えた(場所にある)湧泉」と言えそうである。
地名をつける場合、ムラの中心となる場所を軸に名付けられる場合が多い。すると運天のムラウチやムラヤーのある中心部から「越えた場所にある湧泉」に因んだ地名と言えそうだ。何を超えていくのかというと、クンジャー集落に行くには崖を越えて行かなければならない。その崖のことをシガイバンタと言っている。バンタは崖、シガイは「すがる」の方言。その崖道は木の根や草などにすがらないと登れなかったという。シガイバンタは今でもあり、すがらないと登れないほどの崖を切り通した坂道である。
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▲アガリクンジャー ▲シガイバンタ ▲シガイバンタから見たクンジャー集落
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▲海中の濃い部分がクジラマタ ▲漁場となる古宇利島との間のリーフ
@今帰仁村運天の百按司墓(2004.6.19)
今日は百按司墓についてのまとめる。これまで何回か書いてきたが、今回はこれまで使ってきた資料を含めて、書き改めることにする。近年注目集めているのは漆塗りの木棺としては古いということがある。歴史はもちろんのこと、葬制や漆工芸や金細工などの視点からも関心が深い。
とり急ぎ、百按司墓や関連する資料から読み取れる1500年頃、あるいは前後する時代について描いてみる(詳細については別稿で紹介する予定)。百按司墓にあった木館は保存処置がなされ歴史文化センターに展示・保存されている(画像下)。
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▲百按司墓の第二、三墓所 ▲第一墓所にあった木棺の一部
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▲百按司墓にあった木棺三基。保存処置がなされ展示
A今帰仁村運天の百按司墓(2004.6.20)
昨日に続いて百按司墓のまとめをする。東恩納寛惇は『南島風土記』(393〜4頁:昭和24年発行)で百按司墓について参考にすべき興味深いことを述べている。
運天港に面する丘陵の中腹崖下に石墻を廻らし、その中に白骨累々堆をなし、
俗にこれを「ももぢゃな」と呼び、百按司墓に作ってある。「ぢゃな」は「ちゃら」と
も呼び、按司と同義、「もろもろのあんじ」を「ももちゃら」と称する事は稱する事は
「おもろ」に用例が多い。「ももぢゃな」は「ももちゃら」の轉である。
この墓の由来に関しては或は慶長薩摩入の時の彼我戦没者の遺骨とも謂はれ
てゐるが、球陽の傳へるところに依ると、尚徳の遺臣等を葬ったものとされ、墓内に
木龕数個あって皆「巴字金紋」を銘し、その内一個稍新しきものに、「弘治十三年九
月某日」と記されてゐると見えている。
この木棺は明治三十八年に中故島袋源一郎氏が採集し首里博物館に陳列した
が木製唐櫃様四脚又は六脚、屋根は破風造、その壁の破片に巴字金紋の痕も明
瞭に見え、又壁側に「弘治十三年九月、えさしきやのあし」の銘文も読まれる。「え
さしきや」は羽地村伊差川の事で、おもろに「ゑざしか」とあるのがそれである。
その他に墓の様式や合葬や木棺の形式などについても述べている。東恩納寛惇は「百按司墓」については島袋源一郎の『沖縄県国頭郡志』を参照したり、島袋と交友があり、戦前の首里城の博物館に収集した木棺や巴紋の拓本などの資料を提供する関係にある。
島袋源一郎も百按司墓に関わる資料の提供者でもあるので、『沖縄県国頭郡志』(大正8年発行)も掲載しておく。
下運天の背後は地勢急峻にして崖壁之を囲繞せり。百按司墓は即ち其山腹の雑木
蒼鬱たる中にあり。岩窟に石垣を廻らし容易に見得べからず。垣を攀ぢて中を窺ううに
木龕及鎧櫃の如き朽篋数個ありて白骨累々として堆積せり。而して壁側に「弘治十三
年九月某日」及び「えさしきやのあし(伊佐川の按司ならん)」の墨痕を認め得べし。
百按司墓の語義について「ももは百即ちもろもろの意、ぢゃなはぢゃらの転訛にして古語按司の義なり」と解説している。さらに『混効験集』に「ももぢゃらは諸按司といふこと。女の時はをなぢゃらと申す」と見えたりと。

▲戦前首里博物館に展示されていた木棺 ▲木棺にあった巴紋(拓本あり)
(『南島風土記』の口絵所収:東恩納寛惇)
B今帰仁村運天の百按司墓(2004.6.21)
百按司墓について述べる根拠としているのは、『中山世譜』の尚忠の条の「附紀」の記事である。『中山世譜』の編集は1697年から1701年にかけて編集されている。下の記事は『中山世鑑』(1650年編集)にないのでにないので『中山世譜』編集の時に追録されたのであろう。すると、1700年頃を前提として内容を見ていく必要がある。言い換えると1700年当時、知りえた百按司墓の情報をもって述べていると見ていい。『中山世譜』のこの「附紀」は1700年頃の百按司墓の調査記録とみることができる。(一つひとつの内容については、時間がないので追加する予定)
尚忠王。英明仁厚。深有作為。
永楽二十年壬寅。尚巴志王。恐山北恃固。而復有変。特命尚忠。監守山北。称
今帰仁王子。
後 尚忠踐祚。仍遵旧制。封子弟于今帰仁。世世監守。著為定規。
尚徳王失徳。覆宗絶祀。由是。監守貴族之徒。皆遁世而穏。即今。今帰仁間切。
下運天村。所謂百按司墓者。其貴族之墓也。
墓内枯骨甚多。又有骨龕数個。以木為之。修飾尤美。皆銘巴字金紋。而一個。稍
新者之壁。有字云。弘治十三年九月某日。以此考之。則其貴族。至于尚真王代。而
老盡焉。此其證也。
然人没世遠。墓?骨露。問之。則運天村人曰。裔孫巳絶。無有掃祭者。
C運天の百按司墓
百按司墓についての記事が『球陽』(巻之二)の尚忠王の条に「附紀」として『中山世譜』と同様なことが掲げてある。『球陽』の編纂は1743年〜1745年にかけてである。『球陽』の百按司墓は『中山世譜』の記事を持ってきたのであるが、一部誤解を招くような書き方をしている。『中山世譜』で「監守貴族」とあるのが、『球陽』では「監守」を省き「貴族」としてある。そのため『球陽』の記事を手掛かりにして解している研究者は「尚徳王の貴族の墓」。『中山世譜』をベースに解すると「監守の貴族」、つまり第一(北山)「監守の貴族」ということになる。
二つの文献からすると、『中山世譜』では百按司墓に葬られているのは「監守貴族」と見ると、監守は山北(今帰仁)監守(今帰仁グスクで勤める)をさすので「第一監守の一族の墓」である。『球陽』の監守を省いた「貴族」とすると、文脈から尚徳王(首里城内)が滅ぼされ、第一尚氏尚徳王の一族(貴族)が隠遁し葬られた墓ということになる。
もちろん尚忠系統の監守も第一尚氏系統であるが、尚徳王の首里城で勤めた一族と、今帰仁グスクで監守を勤めた一族の墓とみるかで、百按司墓の木棺をはじめ墓の位置づけに大きな違いがでてくる。二つの文献の解釈においては『中山世譜』の記事をベースにして「山北監守の貴族の墓」だと解すべきだと考えている。(後で紹介するが別の内容の資料もある)。『球陽』の記事を掲げておく。
尚巴志王、山北城地ノ儉岨ヲ恃ンデ、復変乱アルヲ恐ル。特ニ次男尚忠ニ命シテ、
山北ヲ監守セシメ、今帰仁王子ト称ス。後、尚忠践祀ス。仍ホ旧制ニ遵ヒテ、子弟ヲ
封ス。是レニ由リ、今帰仁世々監守し、著シテ定規トナス。
尚徳王、驕傲奢侈ニシテ宗ヲ覆へし、祀ヲ絶ツ。是レニ由リ貴族ノ徒ミナ世ヲ遁レテ隠
ル。即チ今帰仁間切、下運天村ノ所謂百按司墓ハ、ソノ貴族ノ墓ナリ。墓内ニ枯骨甚ダ
多シ。又木龕数個アリ。以テ屍骨ヲ蔵ム。修飾尤モ美ナリ。皆巴ノ字ノ金紋ヲ銘ス。而シ
テ一個稍新ラシキ者ノ壁ニ字アツテ云フ。弘治十三年九月某日ト。此レヲ以テ之ヲ考フ
ニ、即チソノ貴族ハ、尚真王ノ代ニ至ツテ老尽セリ。此レ其ノ証ナラン。然レドモ人没シ世
遠クシテ、墓□シ骨露ハル。イマ人之レヲ問ヘハ、則チ運天村ノ人曰ク、裔孫已ニ絶ツ
テ、墓ヲ掃スル者アルコトナシト。
2004.6.22(火)
「運天の字誌」の編集会議を開催するとの連絡。「しまった。原稿(漁業)の準備をしなければならない」 それで運天の漁港へ漁業の調査へゆく。漁港のあるクンジャー集落と港の撮影。漁港に入り、舟や港の様子。魚揚場、漁港組合の建物など、あれこれ撮影。
夕方4時頃、舟や漁師達が動きだした。船を横づけして製氷をアイスボックスに詰め込んでいる。カードを使ってボタンを押すと自動的にホースから出てくる。
網の手入れをしている若い漁師もいる。漁場や刺し網の設置場所などを聞く。港の西側で何か準備をしている二人の老漁師。タライのような木枠に餌をつけた釣り針を一本一本順序良く並べてさしていく。流していくときに絡まないようにするためだという。
「これなんですか?」
「餌をつけているんだよ。ソデイカのひれを」
「今日は何釣りなさるんですか?延縄ですか?」
「そうだ。ここではペーナーといいよる」
「今の時期は何が釣れますか?」
「今頃はフエフキダイやクチナギなどかな」
「ペーナー、どのくらい長さ流しますか?」
「そうとう流しますよ。餌が7、80だから200mくらいかな」
(針と針の間は2mだとのこと)
「どこらあたりまで行きますか?」
「西側はウサバンタ(崎山)あたり」
「もっと、向こうまで行きませんか?」
「向こうには向こうの人がいるからね」
「よく釣れる日、わかりますか?」
「いいと思っても・・・。結果だね」
運天の漁業について延縄や刺し網などいくつか聞くことができた。「刺し網は今日の夕方入れて、明日の10時頃にあげないとダメ・・・」など。運天の二人の初老の漁師は準備ができると小さなボートで海に出て行った。戻ってくる前に退散する。「君のお陰で釣れなかったよ」と言われると・・・困ります。二度と話を聞きにいけなくなります。多分、「その時大漁だったよ。待っていたら、あげたのに」の声が聞こえそう。ありがとうさん。
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▲シガイバンタからみた漁港と集落 ▲舟揚場にハーリ舟が三隻
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▲釣り針にエサをつけているところ ▲小さな舟で延縄漁へ
【運天のカンナミガマ】(2005年7月24日)
昨日は古宇利島の西海岸を踏査したが、その帰り運天側の浜にボートをつけてくれた。浜に着くなり「そこ、見て見て」と声がかかる。小さな浜があり、崖の麓は半円の洞窟になっている。腰をかがめて入ると中央部あたりにドカンと筒状の穴があいている。「雷が落ちたそうだよ」と。
以前地名調査をしたことがある。その時、カンナミザチ(雷崎)があると教えてもらったことがある。その時、カンナミザチは落雷した岬だ考えていた。そこにガマがあることまでは確認していなかった。
落雷したという岬に落雷でできたというガマを確認できた。ガマを見上げた印象は自然の穴のようでもあり、あるいは井戸として掘った穴の下部分が波で削り取られ、今の形になった可能性もある。いずれにしろ、カンナミサキとカンナミガマの呼び方は面白い。
カンナミガマの呼称は、荒れた時の波が穴の下のガマにたたきつけられ、その音が筒状の穴から聞こえてくる音が雷のような音に聞こえたのかもしれない。台風に穴の上の方から聞いてみることにする。さて、どんな音の響きが聞こえてくるか。

▲上に抜けたカンナミガマ ▲洞窟の途中に上に抜けた穴がある
▲カンナミザキから古宇利島を望む
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